1疣痔 ★2021/02/22(月) 23:19:17.81ID:CAP_USER
10メートル防潮堤 過信招く
2021/02/22
https://www.yomiuri.co.jp/shinsai311/feature/20210221-OYT1T50124/
https://www.yomiuri.co.jp/media/2021/02/20210222-OYT1I50014-1.jpg
防潮堤を越える津波。黒い壁となって街をのみ込んだ(2011年3月11日、岩手県宮古市田老で)(田老町漁協提供)
「津波防災の町」を宣言した町がある。岩手県下閉伊(しもへい)郡田老町といった。
1896年の明治三陸津波で1859人の命が奪われ、1933年の昭和三陸津波でも911人が犠牲になった町だ。
町は住民を津波から守る大事業に乗り出し、78年度に、高さ約10メートル、全長約2・4キロの巨大なX字形の防潮堤が完成した。
「夜でも逃げやすいように」と、街も碁盤目状に造り替えられ、山際には避難階段が整備された。
年1回の避難訓練にも力を入れ、ハード・ソフト両面で防災対策を講じてきた。
国内外の研究者たちから注目を集める町になった。防潮堤は、いつしか万里の長城と呼ばれるようになった。
昭和三陸津波から70年となる2003年3月3日の「津波防災の町」宣言は自負の表れでもあった。
合併して宮古市田老と名を変えたその街は、防災の町宣言の8年後、再び巨大津波にのまれ、181人の犠牲者を出した。
■破られた「万里の長城」
「おらの家は、頑丈だから大丈夫だ。防潮堤もある」。激しい揺れが収まった直後、征夫さんはこう言い切った。
自宅1階は鉄筋コンクリート製。何より巨大防潮堤がある。節子さんも「これくらいの揺れなら」と思った。だが心は揺れた。
再び強い揺れに襲われた。節子さんは「さすがに逃げっぺし」と声をかけたが、征夫さんは「おらの家が流れる時は田老は全滅だ」と動こうとしなかった。
避難することなく、また大きな揺れが来て2人は玄関を出て外の様子を見た。征夫さんは「やっぱりこうやって地震は収まるんだ」と話し、家の中に戻ろうとした。
瞬間、背後から黒い水が押し寄せてきた。
津波にのまれた節子さんは居間の木柱に背中がぶつかり、幸いにも押し流されずに済んだ。
水は2階に達する寸前で止まったが、征夫さんの姿は見えなかった。「命てんでんこだから堪忍して」とわびた。
◇
「高台に行くべし」。トモさんは再三説得したが、正夫さんは玄関に座ったまま、「防潮堤を越えるわけがない」と腰を上げようとしない。
腕も引っ張ったが、「うるさい」と腕を振り払われ、扉を閉められ鍵もかけられてしまった。
仕方なく正夫さんを残し、300メートルほど離れた公民館の裏にある高台を目指した。
地区の避難訓練には何度も参加し、震災2日前の三陸沖で起きた地震の際も訓練通りに逃げていた。トモさんにとって体になじんだ避難ルートだった。
高台への上り坂を上って、「ここまで来れば大丈夫」と安心した時だった。
振り返ると眼下の公民館の周りが黒褐色の津波にのみ込まれていた。腰が抜け、高台にいた住民が駆け寄り助けてくれた。「あと2〜3分遅れていたら」
夫は約3週間後、津波で約130メートル流された自宅の中で見つかった。
4歳の時に昭和三陸津波に遭遇し、親に背負われて山に逃げたと言っていた正夫さん。
「お父さん、それを覚えていたのに……。防潮堤があるからと油断したんだと思う。一緒に逃げてくれれば死ななかった」
2021/02/22
https://www.yomiuri.co.jp/shinsai311/feature/20210221-OYT1T50124/
https://www.yomiuri.co.jp/media/2021/02/20210222-OYT1I50014-1.jpg
防潮堤を越える津波。黒い壁となって街をのみ込んだ(2011年3月11日、岩手県宮古市田老で)(田老町漁協提供)
「津波防災の町」を宣言した町がある。岩手県下閉伊(しもへい)郡田老町といった。
1896年の明治三陸津波で1859人の命が奪われ、1933年の昭和三陸津波でも911人が犠牲になった町だ。
町は住民を津波から守る大事業に乗り出し、78年度に、高さ約10メートル、全長約2・4キロの巨大なX字形の防潮堤が完成した。
「夜でも逃げやすいように」と、街も碁盤目状に造り替えられ、山際には避難階段が整備された。
年1回の避難訓練にも力を入れ、ハード・ソフト両面で防災対策を講じてきた。
国内外の研究者たちから注目を集める町になった。防潮堤は、いつしか万里の長城と呼ばれるようになった。
昭和三陸津波から70年となる2003年3月3日の「津波防災の町」宣言は自負の表れでもあった。
合併して宮古市田老と名を変えたその街は、防災の町宣言の8年後、再び巨大津波にのまれ、181人の犠牲者を出した。
■破られた「万里の長城」
「おらの家は、頑丈だから大丈夫だ。防潮堤もある」。激しい揺れが収まった直後、征夫さんはこう言い切った。
自宅1階は鉄筋コンクリート製。何より巨大防潮堤がある。節子さんも「これくらいの揺れなら」と思った。だが心は揺れた。
再び強い揺れに襲われた。節子さんは「さすがに逃げっぺし」と声をかけたが、征夫さんは「おらの家が流れる時は田老は全滅だ」と動こうとしなかった。
避難することなく、また大きな揺れが来て2人は玄関を出て外の様子を見た。征夫さんは「やっぱりこうやって地震は収まるんだ」と話し、家の中に戻ろうとした。
瞬間、背後から黒い水が押し寄せてきた。
津波にのまれた節子さんは居間の木柱に背中がぶつかり、幸いにも押し流されずに済んだ。
水は2階に達する寸前で止まったが、征夫さんの姿は見えなかった。「命てんでんこだから堪忍して」とわびた。
◇
「高台に行くべし」。トモさんは再三説得したが、正夫さんは玄関に座ったまま、「防潮堤を越えるわけがない」と腰を上げようとしない。
腕も引っ張ったが、「うるさい」と腕を振り払われ、扉を閉められ鍵もかけられてしまった。
仕方なく正夫さんを残し、300メートルほど離れた公民館の裏にある高台を目指した。
地区の避難訓練には何度も参加し、震災2日前の三陸沖で起きた地震の際も訓練通りに逃げていた。トモさんにとって体になじんだ避難ルートだった。
高台への上り坂を上って、「ここまで来れば大丈夫」と安心した時だった。
振り返ると眼下の公民館の周りが黒褐色の津波にのみ込まれていた。腰が抜け、高台にいた住民が駆け寄り助けてくれた。「あと2〜3分遅れていたら」
夫は約3週間後、津波で約130メートル流された自宅の中で見つかった。
4歳の時に昭和三陸津波に遭遇し、親に背負われて山に逃げたと言っていた正夫さん。
「お父さん、それを覚えていたのに……。防潮堤があるからと油断したんだと思う。一緒に逃げてくれれば死ななかった」